HIMEJI Roots | 姫路城 鎮護の杜、そのルーツを辿る

  • エスコート姫路ザ・レジデンス
    権禰宜 大惠貴之さん
    播磨の国の中心であり、歴代城主に崇拝されたお宮。 播磨の国の中心であり、歴代城主に崇拝されたお宮。

     姫路城主の守護の元、播磨の国の中心地となった場所がここ総社さん。姫路城が世界文化遺産に登録され、総社さん人気も国際的です。地域と密着した神様で、初宮参りや七五三詣も多く、初詣には毎年約30万人が詣でます。

     総社では西に8郡、東に8郡ある播磨16郡の主だった神様を、一堂にお招きしてお祀りしています。平安末期に行われた仕組みで、国士と言われる国に仕える優れた方が、一宮、二宮、三宮という順番でお参りするしきたりがありました。そうやって国中の様子を探っていたのではないかと言われています。礼を失することなく、一社で回れるようにと考えられたのが総社だったのです。

     播磨の国は長い間、赤松氏という豪族が統治してきました。姫路城が建ち、規模が大きくなっていった中、その敷地内に総社が入ることになります。姫路城主が変われど、その都度、城を守る社として「ここのお宮を大切にしないかん」と、代々の城主に崇拝されてきたのでした。

     ここ播磨の国は中心地があまり変わってきませんでした。総社が地域の中心のお宮という性格は、今も変わらず残っています。

    総社
    かつて総社門はお殿様専用ゲートだった。

     本殿西側にある総社御門は、姫路城中曲輪正面五門の一つ、総社門が取り壊された後に寄付によって再建されたものです。

     元は現在の市民会館の西側道路をまたぐ形にありました。
    本来の総社門は普段は閉ざされていたそうです。
    祭礼の際にお殿様が通るときにだけ開かれる、お殿様専用ゲートだったと言われています。




    神仏習合の名残。室町時代に釣鐘の奉納があり、総社は今でも鐘が残っている珍しい社となっている。かつては、お城からお給金が支給され鐘で時を告げる係もいた。(左写真)

    1.みみづく、2.三ツ山大祭、3.勝守、みみまる守り、ひめじ守り。
    伝統とともに、人と人、人と街を結ぶ場所。

     20年に一度開催される三ツ山大祭は、八難九厄を払う地域最大の行事です。ビル7階建てに相当する高さの「山」を作り、神輿の置山として、信仰の対象としてきました。

     中心地域だけではなく、まち全体にもと考えられたのが「山車(だし)」。もっと派手にもっと細やかにというものが「御輿」。そして、祭の中でも原初的なものが三山大祭の「山」ということになります。文化財的にも価値があるといえるでしょう。

     江戸時代から城主も町衆も地域一丸となって行う祭は、現在では1週間で65万人の人が集まる大祭となっています。

     時代によって「山」の高さは変わってきましたが、昔はその下に能舞台がありました。霜月大祭で能を上演するのは、その名残です。この時ばかりは無礼講で、城主も町衆も同じ場で楽しんだそうです。

     お城にとっても町にとっても、三ツ山大祭はなくてはならないものだったといえます。

     総社さんは、人とまちを結びつける大切な場所として、今も地域に愛され続けています。

    1. 祭神である大國主命は縁むすびの神様。神の遣いを“みみづく”とし、境内にも撫でみみづくが手水舎横で見守っている。
    2. 平成25年に開催された三ツ山大祭。祭りのシンボルとなる「山」は造花や鬼を退治する侍など伝説をモチーフとした造り人形で装飾されている。
    3. 左から黒田官兵衛にちなんだ勝守、みみまる守り、ひめじ守り。

    御国産木綿会所跡

    御国産木綿会所跡

     19世紀初頭、財政難に陥っていた姫路藩。財政改革を命じられた家老・河合寸翁は、大坂商人が大半を占めていた木綿の売買において、江戸幕府を後ろ盾に専売権を獲得。木綿の売買は財政を立て直すだけではなく、新たな蓄えを築くほどになりました。

     綿町につくられた御国産木綿会所は、お金や藩札(銀切手・銭切手)と同等の価値がある木綿のやりとりが行われ、地位ある人々が集まるまちの核といえる場所でした。